8月 2025
師弟関係
「mentor-mentee relationship」英語でも師弟関係という言葉はあります。師匠の事はメンターとかマスターと言います。スター・ウォーズで言うところのマスター・ヨーダとルーク・スカイウォーカーの関係です。ライトセイバーの代わりにサクションチップを持ち師匠のアシスタントに右往左往です。1日のオペの回数が尋常ではないクリニックで英語も片言程度の私ですが、一生懸命アシストします。器具を滅菌して、並べて、アシストしての繰り返しです。びっくりするくらい数々のオペを目の当たりにしましたが、最初は何が何だかさっぱり理解できませんでした笑。でも、とにかく目の前で繰り広げられるエキサイティングなオペに自分の腕にこの技術をと当時は一瞬たりとも見逃さないぞと言う気持ちでした。
7月 2025
授業料2000万円
運転の腕もメキメキ上がり、その他の業務はラスベガスとロサンゼルスで使う器具の運搬と整理。お金は全く無いので、住み込みで勉強させて頂いてましたので、寝る所と食事はご馳走になっておりました。その為なんでもやりました。子どもたちとも遊んだり、お手伝いさんのお手伝いをしたり笑。昔でいうところの丁稚奉公をアメリカでやってた訳です。ある日院長室に呼ばれ、インプラント指導するにあたり授業料が発生するとおっしゃって頂きました。おいくらですか?と聞いたら書面には200万ドルと書かれてました。 当時の金額で2000万円!これにはびっくりしました。そんなお金無いよ! まあもう来てしまったし引くこともできないので、恐る恐るサインをしました。 ここから僕と師匠と奥様の長ーい関係がスタートしました。
デンタル・インプラント・インスティチュート(DII)
ついにアメリカでの生活が始まりました。まず僕に与えられた仕事は運転手でした。笑 当日お師匠と師匠の奥様。師匠はリオン・チェン先生。台湾生まれのアメリカ育ちでハーバード大学卒業。奥様はジェニファー・チャ先生。ラスベガスが地元の美人先生です。2人とも歯周病の専門医で、当時はリオン先生がオペ担当でチャ先生が被せ物を担当で2馬力で患者さんを診療してました。歯科医院はラスベガスが2件一つは本院で敷地面積なんと3000坪! もう一つはロサンゼルスのパサディナと言うところにもう1件の合計3件ありました。 ロサンゼルスとラスベガスは大体東京と名古屋くらい離れてるのですが、そこに毎週行き来しながら3件を運営する大変ハードなスケジュールでした。私が仰せつかった最初の業務は安全にみんなを送り届ける運転手でした。 インプラントを学びに行って運転手になるとは全く予想しておりませんでした。笑
6月 2025
アメリカへ行く2
さてお師匠に承諾をドバイで取り付け、日本に帰国した僕ですが、そこそこ準備が必要でした。10ヶ月間の準備期間を設定して準備に取りかかりました。妻子とは別居致しまして、実家で生活をする中、離婚調停を行いながら、バイト先にも事情を話しアメリカへ行く事を伝えました。離婚調停では調停員さんに離婚してアメリカへ行きたいと伝えた所、今でも覚えてる面白い事を言っていただきました。「大きな決断を一度に2つやらない事。」なるほどなと思いました。そこで生活費を払い、別居を継続する事で合意しました。当時お世話になっていた勉強会も辞め。10ヶ月間お金を貯めて、全ての支払いを済まし、いざアメリカへ行くときに残ったお金は30万円ほどしかありませんでした。アメリカでは師匠の家に住み込みで勉強させてもらえるという事だったので、自分のお小遣いとしては心細かったですが、寝る場所とご飯さえあればどうにかなるはずと思い、残ったお金でチケットを買い、いざアメリカはラスベガスへと旅立つのでした。続く
5月 2025
僕と師匠の出会い
僕がお師匠と出会ったのは、10歳の頃です。母がハーバード卒後研修のためにボストンにへ行くのに、着いて行ったというか、無理やり連れて行かれた時でした。当時、お師匠はまだハーバード大学の歯学生でした。SNSもインターネットもまだ普及してない時代。異国の地ではやはりアジア人同士でつるむのですが、その中にお師匠も居ました。当時はまだ学生だったお師匠の家でファミコンをやらせてもらったのを、今でも良く覚えてます。お師匠は台湾生まれのアメリカ育ちでとても優秀な方でハーバード大学を主席で卒業した後、自分には何ができるだろうと母に相談したところ、インプラントがこれからの世には必要だろうと母はお師匠にアドバイスしました。お師匠はその後、現在までで累計約7万本のインプラントを埋入するという世界TOPのインプラントトロジスとになるのでした。
アメリカへ行く
お酒の問題とは中々改善が難しく、やはり飲まない事が一番良いのですが、酒好きが酒を辞めるというのは死ねと言われてるようなもので、酒のない人生なんて生きててもしょうがないくらいに思ってましたから、やはりトラブルを起こすわけです。結婚して2年くらいたち次女も授かって、これからとゆう時にトラブルを起こし妻に愛想をつかされ別居する事になりました。その時初めて酒を辞めようと思いました。時すでに遅し。子どもとも会えずに自分のしたことがいかに愚かな事かと思う日々を過ごしてるなか、僕の師匠でもあるDrリオン先生とその奥様のDrチャー先生と偶然にもコンタクトが取れ一緒にドバイに行く事ができました。当時のドバイは医療特区ができたばかりでハーバード大学が病院を作るということで視察に行きました。自分の事情も話しダメもとでアメリカに行ってインプラントを教えて欲しいと伝えたところ、とりあえず一回きてみなさいと行って頂きました。自分は技術をものにしなければいけないと強く思う中、申し出を受けていただいたリオン先生とチャー先生には今でも感謝しております。 自分に今できる事を全力でやろうと決めました。当時28歳でした。
